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創始

前向きに生きる意欲を与え、熱い息吹を吹き込む教育


校舎第1号の浜松市「高台校」

理事長佐藤イサクが「佐鳴塾」を開校したのはおそよ半世紀前。その当時の生徒数は20名あまり。現在のように近代的設備に囲まれた校舎で数百人が学ぶ光景とは程遠く、自宅の一室を教室にしてのささやかなスタートでした。

「能力を眠らせたまま低いところに留まっている子どもたちの少なくないことに気付き、どうにかして彼らの可能性を開拓してやらなければ、という強い想いが生じた。同時に、そういう子どもたちを踏みにじる一部の大人たちの横暴な指導に対し、怒りを禁じ得なかった。子どもたちが自分の未来を、可能性を、自分の意志と努力で切り拓いていけるように、私が手助けをしてやらなくてはならない。この仕事に自分の青春をかけようと決意した。」

当時は私塾界の黎明期。巷には塾が林立していましたが、生涯をこの仕事に費やそうと考える者はほとんどいない状況でした。

心をゆさぶる授業、人間教育を見据える教育


さなるの歴史は、この小さな教室からスタートしました。

理事長の授業は、今もさなるの教師たちの授業の原点となっています。教科内容の説明が明快でわかりやすいのは勿論、それよりも精神面の育成を重要視する指導が、現在も息づく“さなる”の源流です。

「子どもたちに夢を与えたい。そしてそこから向上心や競争心を育み、勉学意欲を引き出してやりたい。子どもはやる気になれば自発的に勉強し、成績も伸びる。前向きに生きる意欲を与え、熱い息吹を吹き込む教育。それが私の目指すところである。」

塾業界の常識を打破した「教師の質」へのこだわり

情熱のこもった授業はたちまち評判を呼び、子どもたちは競ってさなるに詰めかけました。しかし、一人の力は有限。初志実現のために、組織づくりの必要性を強く感じたのでした。志を同じくする教師たちが、どうしても必要だったのです。教育に情熱を持ち、人間的魅力にあふれた人間こそ、子どものための良き指導者になる資質ありとして歓迎しました。

「塾の教師は、学校の教師とは根本的に違う。塾においては、教える側にも教わる側にも選択の自由がある。塾には生徒の入塾を拒否したり破門したりできるという自由があるが、子どもや保護者にも入退塾の自由がある。生徒がいなければ教育は不可能。私塾の教壇に立つ者はそういう厳しい環境に置かれていることを、常に意識しなければならない。」

「教師の質の向上」この徹底したこだわりが現在のさなるの礎。同時に、経営の近代化にも着手。組織を法人化し、校舎を設備の整った近代的ビルにするとともに、大型コンピューターを導入して進学指導のための成績データを蓄積していくなど、次々に新しい手を打っていきました。

浜松市から県下全域へ、「さなる旋風」巻き起こる

理事長の教育観・人生観に惹かれ共感した、同志たる教師たちの情熱的な指導により、浜松市では「さなるパワー」が爆発。生徒数はウナギ上りに増加を続け、数年のうちに3,000名に達しました。そして昭和59年、静岡県全域に「さなるの輪」を広げる方針を決定。

昭和62年の秋には生徒数が10,000名を突破、一挙に静岡県ナンバーワンの私塾となりました。

「さなるは、これでもかこれでもかと生徒に勉強を詰め込む場所ではない。彼らに将来の希望を持たせ、やる気と向上心を持たせることを目的としている。高校受験は、子どもたちにとってまたとない成長の場だ。そこから逃げずに挑戦を続けることによって、より高い次元への飛躍が実現できる。教師はその意義を説くとともに、強い指導力で彼らの能力を開花させようと導いてやらなくてはならない。受験を通じ、人生を教えるのである。」

「我々の仕事は、教育を通じてこの世の中の発展を願うものである。殊にいじめや登校拒否、若年層の非行などの被教育者の精神的な歪みを目の当たりにすれば、日本の教育をより高い次元に引き上げることを願わない者はいないはずだ。教育界に革命をもたらすためには、莫大なエネルギーが必要だ。さなるは私企業として利潤追求のみを目的として発展するのではない。我々の意見を広く世論に問うために、強大な力が必要なのである。」

子どもたちの進学や将来について真剣に取り組み、教師の指導力に何より重きを置いて教育を見つめるさなるに、期待と信頼が集中したのは、いわば時代の趨勢でした。